介護日記・施設拡大中

介護日記・施設拡大中 投稿私小説

火星天気予報

モールのように空を覆う強化ガラスの天井から、壁をつたう雨がウロコのような模様を作っている。 今日の天気予定だと、この雨はあと10分ほど降り続くはずだ。 そう。天気予報ではなくて、天気予定。 (まさか数十年前の人間は、人類が火星に移住して、その星の天気まで操るようになるとは思わなかっただろうな)  

超大型ショッピングモールの隅にあるコーヒーショップの、そのまた隅で休憩しながら、広紀はそんな無駄なことを考えていた。

「あの、すいません!」  

 声をかけてきたのは、長く茶色の髪を後でキリリと結んだ同い年くらいの少女だった。 革風の、テカテカした赤の上着に黄色いミニスカという携帯屋の制服を着ている。 椎名と胸にネームプレートがついているから、そういう名前なのだろう。

「お客様、さきほどコレを落とされませんでしたか」  

手渡されたのは小さなミントタブレットのケースだった。 どうやらさっきカウンターでサイフを出した時にでも落としたらしい。

「ああ、どうも」とお礼を言うと、椎名は笑顔で立ち去りかけた。

「あ、そうだ。ついでにちょっといいかな」

「はい、なんでしょう?」

「あんた、携帯電話の店員さんでしょ? 少し聞きたいんだけどさ」  

そういって、広紀は自分の携帯を彼女に手渡した。

「この機種、地球とでも使える?」

「ええ、契約を変更すれば可能ですが、ーーお勧めしません」

「なんで?」

 「星間通話は一分あたり高いですよーー そのワリに、しゃべってから相手に声が届くまでタイムラグがあるんです。 それに、電磁波の影響で通話不能になることも結構あるし。 普通にEメールにしておいた方がいいと思いますよ」

「い、いや、それでも話したい」  

椎名はふっと微笑んだ。

「お客さん、近々地球に引っ越すコがいるのね。しかも、そのコのこと好きでしょ」

「お前、予知能力がある火星の原住民か?!」

「その顔見たら分かるって」  

いたずらっぽく笑う椎名は、お客様に敬語を使うことも忘れているようだった。 広紀と幼なじみの清子は、兄妹のように育った。 よくある話だ。 一人前に色気づいて、自分が清子の事を好きになっている事に気づいて。 でも、それを告げたらバカ話で笑いあうような関係が壊れてしまいそうで。 で、そうこうしているうちに父親の都合で清子が地球に行く事になって。 本当によくある話だ。

 

「ねえ、その子にもう告白したの?」

「いや、まだ」

(なんなんだこの女は。なれなれしいにもほどがある)  

そう思いながら、それでも答えてしまう自分は本当にお人好しだなと広紀は考えた。

「早くした方がいいわ。その子が地球に行ったら、もうめったに会えなくなっちゃうし。 なおさら言いづらくなると思うの」

 「ーーー」   そう。自分の性格上、多分そうだ。   清子は必死で新しい生活に慣れようとしている所なのに、変な事を言ってジャマをしてはいけないとか何とか、 それらしい言い訳を見つけだして、だらだら引き延ばして。 そして、地球で他の奴に取られないかハラハラしてーーー (うう、何だか死にたくなってきた)

「それに人生、何が起こるかわからないっていうでしょ?」

「なんだそりゃ」

「もしかしたら、これから家に帰る途中、あなたが車にひかれて死ぬかも知れないわよ。 その子の乗った宇宙船だって、地球に届く前に落ちるかも知れないしね」

「ええっ?」  

さすがに最後の言葉にはムッとして、広紀は椎名の顔をにらみつけた。

「もしそうなったら死ぬほど後悔しない?」  

意地の悪い笑みを浮かべていると思った彼女の顔は、意外にも真顔だった。 大きな茶色の瞳は、どこかすがるように揺れている。 ピンク色の唇は、キュッときつく閉じられていた。

(ああ、彼女も好きな奴がいたんだな)  

それこそ予知能力がある火星原住民ではないけれど、それが分かった。   病気か事故か知らないけれど、相手は手の届かない所へ行ってしまったのだろう。 地球や金星よりもっと遠くへ。椎名が伝えたい想いを言うより先に。  

「ね、わかったでしょ?」 とでも言いたそうに、椎名は微笑んだ。 目のはしにちょっと涙をためて。 広紀は携帯画面の隅に浮かんでいるデジタル時計に目をやった。そして、雨が降り続く空を見上げる。 「よし、わかった」

「え?」  

広紀は警察の手帳のように携帯を彼女に突き付けた。

「雨がやむまであと5分! あと5分であいつに告白してみせる。 晴れて恋人同士になったとたんに雨があがるんだ。悪くないだろ?」

「え? なんで急に」  

どういうわけか、それが椎名のためにもなる気がして。 広紀はそう宣言すると、震える指で携帯のボタンを押した。

 

 「あー、清子?もう地球行きの準備は終ったか?」

 『うん、もうほとんど出来たよ』  

聞きなれた、のほほんとした声。

「ホントかよ。忘れ物すんなよ? お前、昔修学旅行に行った時ーーー」  

清子はなんというか相変わらずの調子で。 なんというか、話していて心地いい。

(なんか、このままでもいいんじゃないか?)  

清子の話に笑いながら、広紀はいつの間にかそう考えていた。 想いなんて、今急いで伝えなくたって。それに何よりフられたら?  

視界の隅で、ちらりと自分の携帯の時間を確認するのが見えた。 もう、タイムアウトまで時間がない。   ドキッと広紀の胸が高鳴った。

(そうだ。今言わないと。これをきっかけにしないと、 きっといつまでたってもこの想いは――)

「あ、あのさ清子。いきなりで悪いんだけど、俺、お前の事がーー」  

予定通りに雨は止んだ。 そして、明るい太陽が雲からのぞく。

 「何というか、その、ご愁傷様です」  

突っ伏した背中に椎名が声をかけてきた。

「うるせー」  

広紀はもちろん大切だけど、好きな人は他にいる。 それが清子の答えだった。

「うっわー なんか罪悪感あるなあ。私よけいな事しちゃったかなあ」

「いいや、別にそんな事はねえよ。告白の後押ししてくれた事は感謝してるさ」  

その時、急に周りの客がざわめいて、広紀のため息をかき消した。

「虹だ!」  

椎名が指差した方向を見る。 ガラスの天井のむこうに横たわる、やわらかな弧。 ホログラムよりはかない色の帯が、空を彩っている。   虹だけは、天気予定表にはのらない。 いつ出るかわかる虹なんて、おもしろくもなんともないから。   告白の後の、虹。 結果が幸せな物なら絵になっただろうに。 このタイミングでは何かの嫌がらせとしか思えない。

「あと三十分で仕事終わるけどーーーその後何かおごろうか?」

「いや、いい。大体フられた直後にそんな気になれるか」

「ですよね~ でも、ほら、また好みのコが現れるかも知れないし」  

他人事のように、広紀は冷たい視線をむけた。  

今はまだ清子のことしか考えられそうにない。 まして清子以外の女の子を好きになるなんて。

(しかし、なんて一日だったんだ。ほんの数分間で椎名に会って清子にフられてーーー)

『人生、何が起こるかわからないっていうでしょ?』  

なぜか、椎名の言った言葉が頭に浮かんだ。

「そうそう。言い忘れてたけど、私のフルネームは、椎名 林檎」

「聞いてない」  

 

予定外にかかった空の虹は、まだ消えてはいない。